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2006年08月 アーカイブ

2006年08月18日

ルノワールの生涯

ルノワールの本名はピエール・オーギュスト・ルノワールといい、19世紀のフランス印象派の代表画家の一人でありその作品は日本でも広く知られている。

ルノワールは1841年にフランス中南部のリモージュにて生まれ、3歳からは家族全員でパリに移り住みました。
このころのルノワールは家族が仲良く、みんなが働き者で幸せな少年時代を過ごします。

13歳になると、ルノワールは陶磁器の絵付け職人として働き始めます。
しかし、産業革命・機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、機械で食器にプリントする技術が導入されることでルノワールは職を失ってしまいます。

その後、職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指しました。
1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。のちグレールのアトリエ(画塾)に入り、モネ、シスレー、バジールらと知り合うことになります。

ルノワールは、落ち着いていて控えめな性格もあり、たくさんの人に親しまれている画家でした。
彼らとはよく森で写生をおこない、現在でも初期の印象派の絵画として残っています。

ルノワールをふくめ印象派の画家たちの絵画は、はじめは世間になかなか認められませんでした。
そんな中でもルノワールは絵を描き続け、少しずつファンを増やしていったのです。

40歳をこえてから、結婚したルノワールは家族とともに幸せな生活を送りながらもずっと絵を描き続けました。

晩年、リューマチ性疾患に悩まされ車椅子で生活するようになってからも絵を描き続けていたそうです。
1919年のなくなったその日も、ルノワールはアネモネの絵を描いていたといわれています。

ルノワール年表

モネとならぶ印象派の代表的画家として活躍したルノアールの生涯を年表形式でまとめています。

1840年 フランス中南部のリモージュにて、仕立て屋の六男として生まれる。決して裕福ではない家庭である。
1843年 3歳の時、一家でパリに移住する。よりよい生活を求めてのことである。
1850年 13歳になったとき、父親に陶器の絵付け職人の所に徒弟奉公に出される。
しかし、産業革命、機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、職人としての仕事を失うこととなる。
そこで、家族の生活を助けるため、扇子の絵付けや鎧戸のペンキ塗りの仕事をする。
同時に、夜間のデッサン教室に通い、またルーブル美術館で名画を鑑賞するようになる。
1862年 エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。
のちグレールのアトリエ(画塾)に入り、モネ、シスレー、バジールらと知り合う。
やがて、彼らを中心にして印象派のグループが形成されることとなる。
1874年 印象派展の第1回展が開催される。
他の印象派の画家たちと同様、風景画も制作したが、特に人物を好んで描き、裸婦像、少女像などを得意とした。
なお、印象派展は第1回と第3回に出品している。
他の印象派の画家と違って、ルノワールの絵は好評であった。
サロンに入選を果たしたためか、その後、印象派展からは遠ざかった。
1880年〜 光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。
1881年 イタリアへ旅行をする。
ラファエロやアングルの線を研究。「大水浴図」の制作に没頭する。
この時期を過ぎると、印象派の色彩と古典主義的な形態を結びつけた独特の様式が生まれる。
1883年〜 新古典派の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つ。
1885年 長男ピエール(後に俳優となる)誕生
1880年代後半 輪郭線と色、両方を生かす真珠色の時代の様式へと変化。
1890年 アリーヌと正式に結婚
この頃から暖かい色調が戻り、豊満なヌードを数多く描いた。
1894年 次男ジャン(後に有名な映画監督となる)誕生
1898年頃 リューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子で制作を続けた。
ルノワールは日本にも早くから紹介され、その親しみやすい画風のためか愛好者も多い。
また、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・間接に影響を与えている。
1900年〜 晩年は南フランスのカーニュに住み、1919年に没するまで絵を描き続ける。

印象派と時代背景

当時は、官立美術学校の教授について官学風の教育を受けるか、官設展覧会に応募して入選する以外は、一人前の画家になる道は制度的に開かれて居ませんでした。

ルノワール「舟遊びする人々の昼食 」官設展覧会にはアカデミックな基準に基づいた審査があり、入選するためには、どうしてもアカデミーが定める訓練が必要となったわけです。

アカデミーの絵画教育理念は、ギリシャ・ローマの古代美術やルネサンス期の古典美術を理想とし、古代神話や聖書に取材した作品を最高のジャンルに位置づけていました。

また、写生自体は、アカデミックな基準から必ずしもはずれた行為ではありません。
ただし、伝統的な絵画制作では、そうした写生におけるスケッチは、アトリエの中で最終作品を完成するための習作の役目しか果たしていませんでした。

したがって、自然から与えられた第一印象をそのまま画面に定着することを大切にしたモネやルノワールの作品は、アカデミックな基準からははずれていると判断されざるを得なかったのです。

2006年08月19日

印象派絵画の技法

印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることです。
時にはある瞬間の変化を強調して表現することもありました。

ルノワール「アニエールのセーヌ河」それまでの絵画と比べて絵全体が明るく色彩に富んでいることや、当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴です。

また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いていました。

印象派とは、色の革命であったとも言われ、19世紀中ごろに製造されはじめたチューブ入りの絵の具は、画家をアトリエから解き放ったのである。

さて、主に官展で落選した『印象派』の作品は人々に衝撃を与えました。
彼らはそれ以前の絵画の基本であった輪郭線、そして固有色の概念をも否定しうつろう光を絵画に固定しました。

モネの 『睡蓮』や『ルーアンの聖堂』など、連作作品を可能にしたのも、一瞬で色の調合を可能にするチューブ絵の具の存在があったからであると言っても過言ではありません。

また、彼らは遠近法絵画が至った数学的な調和を否定し、事物から受け取るあいまいなイメージをそのまま描きました。
特に前期における絵画における印象派の傾向は曖昧な輪郭線と明るい色にあるのだが、その技術的な背景はまさに点描技術にあるといってもよい。

点描といっても完全に点である必要はなく、その作品を見ていると画家がおのおの工夫したあとが見られます。
点描技術とは、印象派が絵の具を混ぜることにより彩度が低下することを気にかけたことから使い始めた技術で、彼らはパレット上で目的の色そのものを作ることをやめ、キャンバスに目的の色を描き始めました。

彼らは絵画を遠くから見たときに、その微小な部分が重なってみえてしまうことに気がついたのです。

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